下書き うつ病・勉強会#40 言葉の限界が思考の限界である 幻聴

言葉の限界が思考の限界である

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私が書いている、精神病の発生にかかわる、座標と、出来事というベクトルと、回復力というベクトルの、3者がかかわる事象について、いや、舞台と2人の役者といった方がいいんだろうけれども、そうしたこと全部を、脳の構造変化で理解できるというのは、原則賛成するんだけど、それを理解する方法として、今後100年くらいは方法論的に無理な気もするので、とりあえずは神経細胞ではなくて日常言語の分析から始めるのがいいと思う部分もある。

座標というのは、つまり、その人の背景であって、DNA、成育歴、家族歴、性格、世界観、人間観、価値観、体力とか運動神経も入ると思うけど、そういったものの総合を考えるので、なかなか大変だけれども、そうしたことを考えるのは結局言葉なので、言語分析に帰着する部分も大きいと思う。言葉ではなくて、頭の中に映像が浮かんで変形していったり、言葉ではなくグラフや模式図が頭に浮かぶこともあるのだろうけれども、個々人の傾向にもよるのだろうけれども、脳の性質として、映像もグラフも数式も、なんとなく言葉の網の目が基本になっていて、解像度が決まってくるような気がするんだけど、ま、そんなこともないか。いろいろな認識のパターンがあるんだろう。文章だけではなく、絵も動画もあるわけだから。

分かる人には言葉なんか抜きで、言葉を飛び越して、一挙にわかるんだろう。

音楽なんかも、普通は時間の進行に従って音が流れてくるんだけれども、楽譜を見れば、10分くらいの演奏が一瞬で分かるかもしれないでしょう、人によっては。音楽が一瞬で感覚されるというのは原理的におかしいわけで、ありえないような気もするけれども、楽譜を4枚くらい並べて、それを一瞬見て、10分の音楽をフルオーケストラで聞いたと同じような体験をする人って、いると思うんですよ。そういう脳の特性を持った人っているんじゃないかな。

そんな人に、お前はきちんと音楽を聴いていないとか言ったとしても、的外れでしょう。

時間をかけたほうが熱心で丁寧で価値があると、手編みのマフラーのような、手作り製品のような感じで物事を考える人も多いと思うけれども、一瞬で正確に感じる人もいるわけだから、自分を基準に他人を判断しても、正しくない場合があるでしょうね。他人が苦労していないと許さないというか。

それはいいとして、やはり言葉の網の目がその人の世界認識の精密さにつながっているはずですね、それは理解してもらえると思う。

世界のゆがみというか、座標のズレというのは、その人の使っている言葉のズレで測定することができるのではないかと思うんです。

昔、その人が使っているワープロの辞書を分析して、言語マップを解析すれば、その人の内界についてかなりよく知ることができるのではないかと思っていましたが、最近は辞書もオンラインになっている感じで、あなたの辞書を持ってきてくださいとは言えない感じですね。

昔、一太郎の辞書を、先輩から譲り受けたんです。精神医学の用語とかたくさん入っていて便利だったんですが、その他にも、その先輩のいろいろな要素が分かる感じがしたんですね。漢字変換したときに何が優先で出てくるか、私の頭の中とは少し違う。世界観はこんなふうに違うんだなと思っていたんですよ。

極端に言えば、猫などは言葉を人間のように使用しない、まあでも、記号の意味を読み取るのに似たようなことはしているのかもしれないけれども、そうね、例えば、人間の言葉でいえば、階段を上る時に左足から行くのは縁起が悪いから、右足から行かないといけない、なんていうその猫の脳の回路があって、それに従って行動しているのかもしれなくて、階段という記号が、右足から行けという意味になっているというか、それで思うけど、人間も、実質はそんなふうにできていて、つまり脳の回路はもうすでにそんなふうにできていて、行動は無意識のうちに自動的にできてしまうんだろう、ただそれを自意識は自分で納得して能動感を確保したいから、後付けで、何か言葉で考えているのではないか、というような話は最近よくあると思う。

だって、2メートル先で爆竹が爆発したとして、それを耳で聞いて、目で見て、皮膚にかけらを感じて、さらに周囲の人の反応を感じ取って、という場合、感覚器でキャッチして、それを脳内の処理回路に回すとして、時間差が生じるでしょう。同時ということはないはず。映画で、爆竹の画像が先で、音がすこし後で、皮膚の感触はそのまた少し後で、という具合に流れたとすると、やはり自然ではないですよね、でも、脳に流入する感覚情報としてはそんなふうに時間のずれを伴って流入しているはずで、ということは、脳内で、それを時間のつじつまを合わせて、それぞれの感覚情報が、同じ時間に発生したように、合成している。

本当は視覚情報が先で、0.001秒くらい遅れて聴覚情報、さらに0.001秒遅れて触角情報とか、そんな具合、雷は先に光が見えて、少したってから音が聞こえるから、雷だからずれているなと思うけれども、本当は2メートルであっても、ずれているはずです。それを訂正してしまうからすごいもんだと思います。

例をあげればそんなふうだけど、脳の中でいろいろなつじつま合わせをしているはずなんだね。もっと複雑で心理的なものをあげると、酸っぱいブドウとか、甘いレモンとかになるんだろう。なんで事実そのものを認識しないのかね。インクの染みを見せられて、何に見えるかと言われて、ウサギですかね、いや子宮かな、なんて言うのは変なものでしょう。まあ、そこでインクの染みですと答えるのは状況理解が足りないと判定されますが、ウサギを日頃見ているわけでもないし、子宮なんか見たこともないでしょう、実際は。イメージとしてはあると思うんだけど、なんでそんな手で触ってもいないし、音を聞いているわけでもない、ウサギとか子宮とか思うんでしょうか。それは実体験とかダイレクトな体験ではないものですよね。でも、脳のイメージのシステムの中では割合重要な位置を占めているらしい。それが精神内界なんですよ。

イメージに比較して言語が重視された時代背景の中で、フロイトや特にユングなんかは、言葉だけではなくて、そのようなイメージも含めて、どのように頭の中にあるかなんて考えたんでしょう。人類にとっての蛇のイメージ、そしてその人にとっての蛇のイメージ、そのようなことについての分析があって、夢分析が意味のあるものになるんだろう。人間の重層的なイメージシステムです。それを座標として、睡眠中にもやもやとしたベクトルが発生する、それを解釈して夢という体験になる。

その人の座標を知るというのはそんな感じのことでもあるんです。

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ついでだけど、幻聴について。人間はいろいろなことを言葉で理解して、言葉で発想するから、そのせいで幻聴が一般的になるんだろうと思う。

徹底的に画像的に、イメージで発想する人もいると思うけど。そういう人は、頭の中にいろんな場面が浮かんできて、嫌なんだけど、次々に浮かんで消えるんです、見せられているんだ、とかいうのかな。人によってはメロディーがわいてくる人もいるんだろう。そういう人は、頭の中で誰かが音楽を鳴らしてうるさいよ、とかいうのかな。

作詞作曲をするときはどうなんだろう。作詞は歌うための言葉だから当然音声要素を伴って発生するんだろう。活字で見えるのではないでしょう。

映画を計画したとして、それは言葉抜きで、映像をあれこれ頭に描いて、それをスケッチするのだろう。

どういうメカニズムかはっきりしないんだけど、結局、幻聴のもとは自分の脳の中で発生したものに違いないわけでしょう、他人の声に聞こえているとしても。それが他人が話した言葉みたいに聞こえるというのは何が起こっているんだろうということで、考えてみると、自分の言葉なら、自分で声に出している気分があるかもしれないので、幻聴が聞こえているときの声帯の動きを観察しようとかした人もいたらしい。たぶん期待したようないい結果ではなかったんだろうと思う。でも確かに、何かを考えているとき、声帯のあたりが少しひくひくする感じはないでもない。

小説の場合の良い文章は、音がいいんだと、小説雑誌の編集長さんは言っていた。三浦哲郎とかはいい音が鳴っているんだそうだ。

話がずれるが、活字の言葉に色がついて見える人はいる。だから詩を書くとして、意味だけではなくて、色の配合も考えるらしい。

それなら、声になった言葉に、それぞれの色が見えたりする人はいるのかな。共感覚の話。

人間は、タイプにもよると思うけれども、言葉を思い浮かべるときに、画像として文字で浮かぶか、音声として声で浮かぶかというと、声で浮かぶ人が多いから、幻聴が多いんだろう。言葉が活字として浮かぶというなら、そのような幻視がよく発生するということになるのだろう。統合失調症では幻視はそれほど一般的ではないから、やはり言葉が浮かぶときは音の要素を伴って発生するのではないか。

どうして音かっていうと、言葉が文字として記されたのは歴史が浅いでしょう。動物でも音を立ててまたは声を出して、他の個体に何かを伝えるということはあるわけで、音を意味として聞くという、その部分の脳の回路は非常に古いはずだ。形に意味を見るよりもずっと古い。

統合失調症は私の時間遅延理論によれば、言葉が浮かんで、それを声として発声するときに、発声したことと、発声しようとしたことの、二つの情報が脳の照合部分に集められる。その時、発声しようとしたことが0.04秒くらい早くて、発声したことが遅れて発生したように、脳が時間調整をしている。それで、自分が声を出そうとして、声を出したと、能動感が生まれる。これが脳内の時間調整がうまくいかなくて、逆になって、発声したという信号があって、それから0.04秒遅れて発生しようとしたという信号が到着したとして構成すれば、それは被動感になってしまい、結果として、声は他人に所属し、自分に所属しない、そのことで能動感が失われる。そのような事情だと思う。

そこで、内発性の言葉が声として浮かぶというのはぎりぎりいいとして、それを他人の声と認識するのが病気なんだろう。

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