下書き うつ病勉強会#120 反応性・心因性・神経症性うつ病-3 精神疾患に関する神経症-1

次に、心因性・反応性・神経症性で精神症状を呈するものです。

昔はこれを神経症と呼び、精神病と区別していました。区別の根本は、心因性と身体因性の区別です。しかし、おかしなことに、区別ができないが、身体原因が見つからないから、たぶん、心因だろうということで暫定的に治療は出発するのですが、途中で身体原因が見つかったら、身体病に診断変更です。実際は心因性だと確定診断することはできないことが多いと思います。

一方で、原因は別にして、精神症状の程度で分けることが行われ、現実把握が歪んでいれば精神病レベル、現実把握が歪んでいなければ神経症レベルと分類されたこともあります。また、ヤスパースの了解を用いて、了解可能なものは神経症で、了解不可能なもの・理解だけが可能なものは精神病だと分類することもあります。了解にも静的了解や発生的了解があります。というわけで、辞典を引用します。

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了解

精神的なものを内的、直観的にとらえること。精神科学固有の認識方法であって、自然科学的な認識方法である因果的説明に対立する。この概念はヤスパース K. Jaspersによって精神病理学に導入されたもの。了解は「静的了解」(statisches V.)と「発生的了解」(genetisches V.)とに二大別される。前者は体験された個々の心的なものをそのままにとらえることであり(現象学)、後者は心的なものが心的なものから生じるのを了解することである(了解心理学)。発生的了解には、それがたしかであるという究極的な明証体験がともなっている。しかし了解というものはいたるところに限界をもっており、了解できぬものにいきあったとき、この明証体験は動揺し、そこから先は因果的に説明される。また了解は意識されるものの範囲にとどまるが、その範囲を意識外のものにまでひろげて了解することがある。たとえばヒステリーの場合のように、心的なものが無意識的に作用して感覚障害や運動障害をひきおこす。しかし意識外のものは本来了解できぬ対象であって、このような了解は「かのごとき了解(als ob Verstehen)」といわれる。ヤスパースは、フロイト S. Freudが了解する多数の現象はこのような了解であるとしてきびしく批判している。

了解の種類にはほかに次のようなものがある。現象学的了解(phanomenologisches V.):患者の自己描写によってその体験をわれわれの心のなかに描きだすこと。表現了解(Ausdrucksverstehen):運動の身振りや形姿における心的意味を直接に知覚すること。合理的了解(rationales V.):合理的内容(たとえば妄想内容)をただ理論的思考によって了解すること。感情移入的了解(einfuhlendes V.):心的なものに身を移し入れ、追体験して了解すること。

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分かりにくいですね。そして読んでみても、考え方のポイントがあって、ヤスパースがこのことをひらめいた瞬間は快感だったろうなという共感がわかない。こうなると、学問としては死んでいるのだ。まあ、当然、世間の人たちはヤスパースも了解も広く支持されているのだから、私のほうが理解が届いていないようなもので、たとえば、数学なんて人生に役立たないだろうとか言っているのと同じ部類に入るのかもしれない。しかしまた裸の王様の話みたいなもので、仲間外れにされないように、大勢に順応している人もいるのかもしれない。

うつ病の場合が分かりやすいのですが、これまでの話から、身体因性うつ病と心因性うつ病を区別するのが、当面妥当な考えだと思うでしょう。ところが精神医学の大先生は、身体因性だと推定されるけれども、詳細は分からず、将来、医学が進歩すれば、必ず、進行まひ(脳梅毒)のように明確な原因が見つかるはずのものだと考えて、内因性精神病と呼びました。なぜそのように身体的原因があるはずだと推定したのか、調べてみましょう。

そのような考え方の代表はクレペリンですが、広く読まれている本としてはシュナイダーの教科書があります。シュナイダーによれば、循環病(躁うつ病)は未知の脳の疾病の心理的表現であるということになりますが、その理由は次の通りです。遺伝傾向の存在、全身性の身体変化の随伴、身体療法(薬物療法導入前の電気けいれん療法など)の有効性などです。しかし、それ以上に重視されたのは、循環病の患者では正常な精神生活およびそのバリエーションとは全く類似性を持たない症状までも現れるということ、およびその症状は心理的体験のために生じるのではないという精神病理学的事実です。(この最後の部分が分かりにくいので言い換えると)

つまり、典型的躁うつ病は、正常心理学で納得できる心理的きっかけがなくても生じ、症状は程度が強いというだけでなく内容が極端で、日常生活で経験する憂うつや高揚とは明らかに隔絶し、身体面の症状も多く含む。治療には(現在ならば)薬物療法や電気けいれん療法などの生物学的方法が有効である。こういうことから、典型的躁うつ病には、脳の身体的疾病があると考えるべきだとの提案のようです。

やっぱり、この提案には賛成できないですね。「内容が極端」とか、「普通の憂うつとは隔絶している」とか、そんな決め方でいいはずはないでしょう、と私は思います。判定者の頭が曇っていたり、特定の利益に誘導されたり、人間社会の派閥的思考が影響していたり、いろいろな事情で人間の脳は『曇る』ものだと思う。そこをもう少し原理的に解決しておかないといけないと思うが、実際は難しい。判定者が色眼鏡をつけていないとなぜ承認できるのか。自分と同じ色眼鏡をつけていれば、承認できるのか。

しかし一方で、内因性と心因性にうつ病を分解して考えることには賛成なんです。そのことで診断面で利益があるし、治療面で利益があると思えるからです。臨床的実感としては、実に共鳴できることなんです。ここが不思議だ。

しかしそのことは、錯覚であるかもしれないし、共同幻想であるかもしれません。共同の色眼鏡をつけて世界を見ているということなのかもしれない。そのことをあくまで前提として、考えたほうがいいとは思う。

こころが原因でこころに症状が出るのですから、なかなか難しいことになります。

昔キリスト教の内部で、天使は存在するかと問い、さらに天使は何種類存在するのかと問い、さらには針の上で天使が何人舞うことができるのかなど、それに対して3人とか、文献学的に証明したりした。仮定の上に仮定を重ね、どんどん深い穴に潜ってゆくのは、思弁の性質として仕方ないものだろう。しかし一方で、そういう状態に落ち込んでいて視野狭窄になっている可能性も考えることが重要だ。

地動説と天動説でも、天動説は実際の観察的事実に合わない部分が出ると、モデルを修正して、どんどん複雑になっていった。地動説のすっきり具合と比較して、どうもいかんなあというような状況になっていった。そして押し切られた。知識層から地動説の波は始まったが、それに頑強に抵抗するのもまた知識層だった。単純に、知識層でまずパラダイム変換が終了し、それが庶民に広まったという図式ではないらしい。今でも、聖書にあくまで忠実で、進化論は受け入れないという人が非常にたくさん生きているのだから、いろいろ考えさせられる。

ちょっと話がまとまらないが、下書きなのでいいだろう。

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