下書き うつ病勉強会#135 内因性うつ病と心因性うつ病は正確に鑑別できるのか?-2

内因性うつ病と反応性うつ状態とが症状学的に鑑別可能であることを証明できるか。
Schneiderは
「生気的悲哀 vitale Traurigkeit」
「感情がないという感情 Gefuehl der Gefuehllosigkeit」ないし「感情疎隔の感情」
英訳とフランス語訳では「感情がない自覚」となっている
Untergrund(基底)。基底抑うつ(Untergrunddepression)。
Schneiderは「基底(Untergrund)」と「背景(Hintergrund)」を「了解可能性」という点で区別している。
Tellenbachは内因(Endon)
Schulteは「悲哀不能 Nichttraurigseinkoennen」
「悲しむことも喜ぶこともできない状態」を、「悲哀不能」と命名して内因性うつ病体験の本質とした。「悲しめないこと」をメランコリーの核として取り出した。
悲哀不能では、気分の生起そのものがない。彼らは確かに「気分が憂うつだ」という言い方はするが、それらは健常者の気分の変異ではなく、「気分の外部へと放逐された語りえぬ苦痛」を何とか伝えるための詩的言語である。
DSM一Ⅲ(1980)で心因性抑うつと内因性抑うつの二分法が破棄された。しかしその後もこの二分法は維持されてきた。両者の鑑別は実は容易な部分と困難な部分がある。心因の極と内因の極を考えて、両者の間にスペクトラムを考えると、極の近辺では診断が容易である。しかし中央部分では困難である。そもそも両者の成分が半ばしているのだから、どちらかとは決められない。
また、安易に心因であるとの印象を持ったとしても、実は内因である例があるのだといわれると、しっかりと鑑別しようと思うが、明瞭な鑑別法はないようで、諸家の提案は哲学的で詩的であいまいで理解困難である。
実際的に役立つとの印象を与えているシュナイダーでさえ、基底とか基底うつとか言い出し、理解困難だし説明もしにくい。生気的悲哀 vitale Traurigkeit、感情がないという感情 Gefuehl der Gefuehllosigkeit、基底抑うつ Untergrunddepression、そしてヤスパースの了解可能性。あの有名なTellenbachは内因(Endon)。これがまたややこしい。Schulteは「悲哀不能 Nichttraurigseinkoennen」。その他、「アンヘドニア=喜びと興味を体験する能力の喪失」。「気分の非反応性」。
どの人も、言葉のそのままの意味と内容がかなりずれてしまっていて、よく分からなくなっている。あまりに哲学的すぎる。つまり、誰も正解を言っていないのだろう。そもそも問いが間違っているのかもしれないと思ってみるが、個人的にはこの問いは間違っていないと思う。
これ以上深入りしても実りは少ないと思う。
最近論文を読んでいても、「DSMは本流でも何でもない、昔ながらの良き伝統を思い出せ」という話が多い。新規のブレイクスルーが少ないことが原因だろうけれども、これって、製薬会社がDSMを買ったのかとかの声も聞こえる。
私自身は古い伝統に首までつかって、改めて学問的根拠はどうかと考えてみると、先輩からの教えも共同幻想に近いものなのかなと思うこの頃である。
100年たてば景色はすっかり変わっているだろう。

なぜ学者諸氏は昔の話ばかりするのだろう。数学や物理学で、ニュートンがこう書いているとか、アインシュタインやハイゼンベルクの原著を訳しなおそうとか、そのような文献学者みたいなことはしないと思う。一方、本物の文献学者は例えば、メルロ=ポンティの文献を読んでいて、この言葉をこの意味で初めて使ったのはどの論文でしたかと質問されると、それは何年のどの論文です、それ以前はこういう意味で使っていたと思いますと答えたりして、討論が進む。それはそれで大変なものだと思う。しかし自然科学としての精神医学は文献学でもないし歴史探訪でもない。
普段日本語で暮らしていると、英語論文で新しい概念に触れるのは少しおっくうになる。辞書に載っていない単語が出てくる。既知のものを英語で読むのはそれほど抵抗がない。そのような事情もあって、英語世界と少し時差が生じることもある。時差が生じないのは既に死亡した人の文献を読み直すことである。
全般に、DSMが環境因・状況因として作用している神経症状態のようなものである。
退行して昔の話ばかりしている。

微積分は新しい教科書で勉強したい。量子力学も新しい教科書で勉強したい。精神医学も新しい教科書で勉強したい。
だいたい、2000年よりも前の文献はもう読まなくていいと思う。学者さんが2000年よりも昔の話をまとめてくれているのは短時間で読めるのでお散歩するくらいの気分で勉強すればいい。DNA、免疫系、神経系、人工知能の新技術、コンピュータの世界、これらを知るだけでも結構時間がかかる。発信はしない立場で、出された情報をどう解釈するか自分なりの見解を持つことだけでも容易ではない。学者さんのデータが嘘であることもあるし、分析が嘘であることもある。

ネットで検索される情報も、古いままで放置されているものも少なくない。古いものに限って、記入年月日が書かれていない。ネット情報で頭がすっきりすることはそんなに多くないような気がする。巨大な広告空間。または洗脳装置。忘れた漢字を確認するとか、忘れた固有名詞を確認するとか、そんな役には立つ。プロ野球選手の記録とか。
マスコミもネットも歪んだ空間である。歪みを自覚するには少し工夫が必要になる。騙されないようにと思っても、数年は騙されていたりする。

学者さんはアウトプットを要求されるのに、予算はつかない。予算をつける人は学者さんよりも先が見えているのだろうか。役所とか財団が研究者に予算を割り振るということが原理的に無理があるとも感じる。
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