「了解」も「内因性うつ病」も、過去の精神医学の話のように映るかもしれない。了解(および了解不能)が現在でも重要な役割を果たし続けている。伝統的に内因性うつ病は了解不能な気分状態として把握されてきた。うつ病はわかるようでわからない。
「内因性うつ病」
1.誘因と症状との時間的/意味的関連が乏しく、通常の心理的反応とは考え難い。
2.うつ病では、主観的に気持ちが落ち込むと感じるのみならず、身体的に体験される症状を呈する。「生気的悲哀」と呼ばれる。
うつ病の抑うつ状態においては、さまざまな精神現象の間に意味的なつながり(意味連関)が失われており、なぜそのような状態になっているのか、患者本人にも診察した医師にも理由が不明である。
なぜそうなるのか理由をたどって理解することを「発生的了解」と呼ぶ。内因性うつ病は発生的に了解不能ということになる。さらに、このような抑うつ症状については、患者と同じような感じを追体験することも難しくなることがしばしばある。
意味的なつながりは、ほとんどの人々の間で共有されている客観的な事柄であるから、そこからの逸脱についても、ある程度客観的な把握が可能といえる。人間の脳はそのようにできている。
意味的なつながりのわからない精神現象について把握するためには、意味的なつながりという枠組みの外側に出て把握しようと試みる必要がある。そして意味的なつながりの外側にある事柄として、さしあたり想定されるのは、生物学的な異常という原因である。
原因‒結果の関係と、意味的なつながりで了解される理由とは、重なり合う部分があっても概念的には違う。
脳の生物学的異常が想定される事柄について、精神療法的に解決するのは難しいと考えられる。したがって、そのような特徴をもつ抑うつ状態の治療としては、生物学的治療、つまり薬物療法や電気けいれん療法などが必要になる。
患者の体験を「わかるよ」と医者が簡単に言ってしまうと、患者はむしろ理解してもらえていない気持ちになるおそれがある。Schulte, W.
了解できる抑うつ症状は、質的には正常な心理的反応と区別できず、正常な心理的な反応の延長線上でとらえることができる。
悲嘆反応の専門家であるコロンビア大学の Shear, M.K.はうつ病と悲嘆反応との違いを明瞭にまとめている。「うつ病はポジティブな情動の体験を妨げるが、悲嘆はそのようなことはない」「悲嘆は人を内向きにするが、他人と一緒にいたい欲求や、他人の努力への感謝は保たれる」。うつ病ではそのような他者への志向性が失われる。「悲嘆する人は自尊、自己価値の感覚を保つが、うつ病の人は自らへの信頼を失う」。遷延して複雑な症状を伴う悲嘆の場合でも、これらの区別は基本的に保たれると Shear は指摘している。つまり、大変不明瞭ではないか。
了解不能な抑うつ症状の特徴として、誘因と症状との時間的・意味的関連が乏しく、通常の心理的反応とは考え難いことと、身体的に体験される症状があることを挙げた。ところで、この 2 つは別々の事柄なので、時に両者が乖離することもありうる。
Weitbrecht が重視したのは、「生気化した」抑うつ反応なのか、誘発された内因性うつ病なのかという問いであった。前者は抑うつ反応だけれども身体を巻き込み身体的に訴えられる症状を伴う場合を述べている。後者の誘発という用語は、環境的な出来事が内因性うつ病を発症するうえでのきっかけ、引き金にはなっているけれども、環境が原因で内因性うつ病になったわけではないことを意味している。これらの区別について、Weitbrecht は「生気化した」抑うつ反応の場合は、誘因となった体験内容が主題としてとどまり続けるのに対し、誘発された内因性うつ病の場合は、当初の体験内容が次第に背景に退き、疾患の自律的な経過をたどるようになるという違いを指摘している。
内因—反応境界領域の諸概念
内因反応性気分失調(Weitbrecht, H. J.)
基底抑うつ(Schneider, K.)
根こぎ抑うつ(Bürger—Prinz, H.)
消耗抑うつ(Kielholz,P.)
生気うつ病(Petrilowitsch, N.)
自律神経抑うつ(Lemke,R.)
内因性若年—無力性不全症候群(Huber, G. Glatzel, J.)
制縛抑うつ(Lauter,H.)
疎隔抑うつ(Petrilowitsch, N.)
心因に誘発された内因性うつ病について、こんなにも議論しているんですね。
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マスコミ報道について思うこと。事件を起こした人についての詳細が報道されるとして、最大限の了解を試みる場合と、そうではなくて突き放して了解の努力もしない場合があると思う。
自分が応援したいとか、好ましく思っている人の場合は、詳細を知れば知るほど、そんな事情があったのか、それなら無理もないと思う。了解可能と思いたがっている。
あまり関心がないとか、嫌悪している人についてならば、了解不能でしょうという前提で理解しているようなところもある。
多分、どんな人でも、自分の血縁が精神病だと認めることにはためらいがあるだろう。できれば反応性だと思いたい部分があるような気がする。そのことが影響して判断が曇る。
心理的距離が近ければ、了解可能の範囲は拡大する。専門家としては自分の傾向を見て、訂正しつつ治療しなければならない。
例えば、自分が判断するのではなく、誰か信頼できる恩師とか先輩が治療するとしたらどのように判断するだろうかと思ってみてもよい。まあ、そんな風に思うから、共同幻想が維持されるのだろう。なんでも、強く思い込むのは避けたほうがいい。座標変換できる自在さが必要である。
自分がどう感じるかではなく、専門家として判断するならどうするかなどと考えているかもしれない。共通のプラットホームというか、共有できる基盤の上で考える。しかしそのことが精神病の診断として本当に正しいのか、それは疑問だ。
お茶の作法などは誰かかが決めてみんなで守り抜いているのだと思う。医学はそのようなものとは違うので、恩師とかガイドラインとかに従うだけではいけないと思う。