目次
A.退行期メランコリー lnvolutional Melancholia
A-1.ひとつの症候群が消滅した話
A-2.疾病分類学と病前性格論
B.メランコリアを伴ううつ病について
B-1.「誤った目的のために」
B-2.認知的錯覚について
B-3.象徴的な論争
C.メランコリータイプについて Typus Melancholicus
C-1 流行と反復
C-2.認知的諸要素について
i)プロトタイプ照合法の不安定性
ii)精神症状の認識論
iii)ハロー効果
iv)うつ病は多様化したのか
C-3.実証的研究
C-4.全体主義の残像なのか
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A.退行期メランコリー lnvolutional Melancholia
A-1.ひとつの症候群が消滅した話
「退行期メランコリーはジフテリア、天然痘や第三期梅毒と同じ道を辿っている。これらの疾患は、必ず医学の教科書に記載され、医学生はそれを学ぶけれども、医学が発展した地域では、完全な症候群は滅多に見られなくなってしまった」(1968年米国のRosenthal SH)。
Kraepelin Eの記述した退行期メランコリーは、不安や焦燥が顕著で制止を欠き、しばしば罪責的あるいは心気的妄想を伴い、典型的には先行エピソードなく緩徐に発症し、長く持続して回復しにくいという特徴を持つ、初老期の症候群である。
Kraepelinは当初これを躁うつ病とは区別し、退行期(初老期)精神疾患の一型としていたが、その後Dreyfus GLの研究によってこの区別が否定されたため、教科書第8版(1913)ではこれを躁うつ病に併合した。しかし、米国ではこの修正に対する批判が強く、退行期メランコリーはその後も長く教科書に記載されていた。
Rosenthalは、マサチューセッツ精神保健センターにおける入院患者の変遷を分析していた。1945年、1955年、1965年の3つの時点で入院患者の診断を比較すると、感情障害群が全体に占める割合に大きな変化はなかったものの(約3割~3割半)、感情障害群中、躁うつ病と退行期メランコリーは大幅に減少し、「抑うつ反応」が著しく増加していた。
退行期メランコリーの劇的な減少は、1955年と1965年のあいだに起きていた。感情障害群中の割合は、3つの時点でそれぞれ26、49、9%であった。この間、感情障害の患者群は顕著に若年化しており、退行期メランコリーの減少は診断慣習の時代的変化だけでは説明できない。
これらの変化は、社会のなかで精神医療が受け容れられやすくなってきたことと、有効な抗うつ薬や電気けいれん療法が普及したことの結果であるのかもしれない。
退行期メランコリーは緩徐に発症し、長い時間をかけて典型的な病像を呈するに至るが、家庭医やクリニックの精神科医が前駆期に加療すれば、「神経症性抑うつ反応」といった診断のまま回復していることも考えられる。
因子分析研究者であったRosenthalは、退行期メランコリーの独立性を検証したが、それを確認することはできなかった。
典型例の記述との照合によって行う従来の診断法は、症状の評価を典型例に引き寄せてしまう危険を孕んでいた。一方、症状評価尺度や因子分析研究には、そのようなバイアスを弱める作用もあった。
新しい治療と研究技法の進歩に伴って臨床家の認知様式も変わりつつあるなか、歴史的な症候群が「消滅」しようとしていた。
研究技法は進歩しつつあるというのに、皮肉にも、治療法の進歩によって研究が妨げられ、退行期メランコリーとは何であったのか、そもそもそれは存在したのか、という問いにさえ答えが出ないまま、歴史の闇に消えていこうとしていた。
1976年には英国のKendell REが、うつ病の分類に関する総説のなかで次のように書いている。「この三十年間に、退行期メランコリーへの関心はすっかり衰えてしまった。退行期メランコリーは独立した疾患実体ではないことは、いまや広く受け容れられた。このような変化をもたらした最大の理由は、重度の焦燥、虚無妄想、奇怪な心気症状といった古典的な病像がますます稀になったからであり、それはおそらく、壊疽の場合と同様、有効な治療によって疾患の発展が妨げられているからであろう」。ICD-8を最後に、退行期メランコリーは公式の疾患分類から姿を消した。
A-2.疾病分類学と病前性格論
米国では1930年代に、Abraham KやKretschmerEの影響のもと、退行期メランコリーの病前性格が議論されるようになっていた。
1936年、コーネル医科大学のTitley WBは退行期メランコリーと躁うつ病の患者および健常者10名ずつについて性格特性を比較した。その結果、退行期メランコリーの患者に特徴的だったのは、興味の狭さ、順応性や社交性の低さ、性的不適応、高い倫理基準の頑なな遵守、倹約、寡黙、不安や過敏さ、頑なさ、過剰な誠実さや細心さといった特性であった。躁うつ病の患者はむしろ健常者に近かった。
続いて1938年、ペンシルヴァニア大学のPalmer HDとSherman SHは、退行期メランコリーおよび躁うつ病の患者50名ずつの性格特徴を比較した。その結果、退行期メランコリー患者では内向性、硬直性、強迫傾向、強い抑制、過剰な信心深さといった傾向が特徴的であり、外交的で率直な躁うつ病患者とは対照的であった。
いずれの研究でも、精神分析(特に肛門性愛性格の概念)の影響下で病前性格と発病機転との関係が論じられ、その結果も踏まえ、「退行期メランコリーは躁うつ病の一種ではありえない」という結論が下された。評価法の客観性、検定法、対象者数など、研究方法に多くの問題を孕んでいた。どちらかといえば好ましくない特徴や異常性に重点が置かれたこれらの記述は、米国でのうつ病患者のイメージに影響を残した。
1930年代に九州大学精神科で下田光造のもとに病前性格の研究が行われた。1932年に中が「初老期鬱憂症」の研究を報告した。「初老期鬱憂症」praesenile Melancholieは退行期メランコリーを指していた。
病像は通常の典型例とは微妙に異なっていた。「多クノ學者ハ苦悶ガ初老期鬱憂症二多シト考」えているが、「我々ノ経験ニヨレバ著シイ苦悶ヲ現ハスモノハ寧ロ甚ダ少ナイ」のであり、「神経衰弱ト誤ラレ易キ程度ノモノ」が37%含まれていた。58%の患者に妄想が見られており、現代の「軽症うつ病」よりははるかに重症である。そして、40代が6割、男性が6割を占め、「上流智識階級」に属する者が大半であった。この病前性格を「偏執的性格」であるとした。
女性が少ない点は西洋の文献と異なっていたが、「恐ラク女子ノ社會的地位ノ差ニヨルノデハナイカ」としている。
この性格は「基幹的氣分ヲ感情ノ持績的緊張二置クモノ」であり、熱中性、徹底的、強い責任感、率直、律儀、他人の非も見過ごさないことなどによって形容される性格的一方面であるが、教室でのこれまでの研究により、躁うつ病にも広く見られることが確かめられており、病前性格の共通性という観点からも、「Kraepelinノ初老期鬱憂症ナルモノハ躁鬱病ノ鬱状態二過ギ」ない、と結論した。
その後、躁うつ病の病前性格について向笠が研究を継続し、義務責任感、徹底性、熱中性といった特徴が広く見られることを確かめ、1941年に論文として発表した。「偏執的性格」は「執着性気質」と呼び換えられ、「之は模範青年とか模範社員とか言はれる種類の人に屡々見られる特徴で、極めて良い性格であるが、他方に於いて若し其の感情執着が自分の義務、責任ではなく、自己の権利、他の責任といふ方面に向かふと、紛争的で他の非を徹底的に糾断し、又自己が一旦執着した事柄は如何なる非難を受けても貫徹するといふ様な厄介な人物となる」と説明した。
当時、メランコリーについて精神分析の見地から両価性を重視した学派があったが、下田は器質論の見地から中枢感情装置の疲弊を推測した。
1931年には満州事変が、1937年には日中戦争が勃発し、「一旦執着した事柄は如何なる非難を受けても貫徹する」という気運が、日本全国で高まりつつあった。時代の空気が学者の脳に影響を与えていた。
B.メランコリアを伴ううつ病について
B-1.「誤った目的のために」
1980年に米国で公表されたDSM-Ⅲは、軽症から重症までを含む「大うつ病」を定義したうえで、その一部に「メランコリア」を伴うものが存在する、という分類法を提示した。これが今日まで大きな変更なく用いられている。
この場合の「メランコリア」とは、かつて「内因性うつ病」あるいは「生気うつ病」と呼ばれていた典型例の病像を指す。「内因性」の言葉の定義が曖昧であり、歴史的には「変質説」と深く結びついていたことを理由として忌避され、「メランコリア」の語が採用された。
この階層型の、あるいは、「部分集合」的なモデルは、内因性うつ病と神経症うつ病をまったく別物と考えていた精神科医たちを大いに混乱させた。
2010年、DSM-5の作成が進められるなか、Parker G、 Fink Mら17人の精神科医や医学史家が連名で米国精神医学誌に声明を公表した。それは大うつ病エピソードの特定用語として位置づけられている「メランコリア」を、別個の、あるいは独自の気分障害(“as a distinct mood disorder”)として分類すべきである、という趣旨の主張であった。
Parkerが所属するニューサウスウェールズ大学(オーストラリア、シドニー)の精神科は、かつては英国から赴任したKiloh LGによって率いられていた。Kilohはニューキャッスルのダラム大学にいた1960年代からうつ病の二元論(うつ病を「内因性」と「神経症性」に二分する考え方)の妥当性を主張した。一方、当時モーズレー病院にいたKendell REらは一元論を主張し、論争を続けていた。
英国でのこの論争の起源はさらに1926年にまで遡り、第二次大戦まではペンズハーストのキャッセル病院の人脈と、モーズレー病院のMapother EやLewis Aらが論争を繰り広げた。いずれの時代にもモーズレー病院側は、うつ病の分類を否定する一元論の立場に立っていた。
電気けいれん療法や抗うつ薬が普及していった戦後と、優生学やショック療法が支配した戦前とのあいだには、おそらく深い断絶がある。
20世紀初頭、社会衛生学運動のなかで優生学が影響力を持つに至った。19世紀にはまず、細菌学の発達によって多くの伝染病が克服可能なものとなる。外科技術の進歩、新薬の開発なども、さまざまな病気の克服に大きく貢献した。さらに社会環境の整備を通じて、罹病率や死亡率を引き下げる努力がなされた。しかし、それでもいくつかの病や障害は克服できないものとして残った。
少なくとも20世紀初頭において、「遺伝」という概念は、厳密な科学的概念としてよりも、克服できないこれらの病や障害を説明する一つのマジック・ワードとして機能した、そして、優生学の課題は、遺伝として説明された不治の病や障害をもつ人びとがその遺伝子を残すことを、何らかの方法で遮断することによって、彼らの病や障害そのものを将来、社会から根絶することに、求められた。
1893年にMoebius PJが、「内因性endogenous」という言葉を、精神疾患の分類のために植物学から転用したところ、わずか数年のうちに多数の精神科医が、(Moebiusの意図に反して)これを「遺伝性」という意味合いで使用するようになった。その背景にはこのような事情があった。それは明確な実体を持たないがゆえに、さまざまな問題の原因を帰属させることができ、その排除によって「解決」が可能になるかのような錯覚を誘った。やがて精神疾患は、欧米各国で優生学の対象となっていった。
1926年に英国でうつ病の二元論を否定したのは、当時のモーズレー病院長Mapotherであったが、近年医学史家が明らかにしたところによれば、Mapotherには精神疾患を患う母親と妹がいたという。強制入院や身体拘束の廃止を試み、精神外科手術には終始否定的であったMapotherが、疾病分類でも「内因性」という絶望の淵から患者を救おうとしたことには、個人的な理由があった。
Mapotherのあとを受けて二元論を否定したLewisはユダヤ系であった。 Lewisは1938年の講演で語った。「うつ病あるいは精神疾患一般の分類は誤った目的のために有用であるかもしれない。分類法は、予後に望みがないとか、特定の型の治療が必要であるとか、誤って見なされる症例を選び出すために用いられるかもしれない。」
すでに1933年にはナチスドイツにより「遺伝病子孫予防法」が制定され、統合失調症や躁うつ病(当時は単極性と双極性の区別はなかった)を含めた精神・神経疾患罹患者や知的障害者に不妊手術が強制されていた。
1939年に第二次大戦が勃発すると、精神障害者はもはや不妊手術ではなく「安楽死」の対象となったが、対象者の選別は、疾患が不治であるかどうかに関する精神科医の判定に基づいていた。この際には、28万3千人の調査表が作成され、少なくとも7万5千人が判定に基づいて殺害されたと言われている。疾患分類は文字通り生死を分けたのである。
患者家族や聖職者たちの抗議により、精神障害者の安楽死は1941年には中止されたが、同時期より「安楽死」のシステムがユダヤ人に転用され、いわゆるホロコーストのはじまりとなった。
B-2.認知的錯覚について
Lewisを理解するために、時代も分野も異なる研究者の業績を参照してみたい。Kahneman Dは、行動経済学の分野で、人間の意思決定メカニズムについて、Tversky Aとともに多くの研究を行い、2002年にノーベル経済学賞を受賞した。研究の主要テーマは、意思決定における「認知的錯覚」である。
人間の直観的な判断が当てにならないことを示しただけではなく、直感の誤りを支配する諸法則を明らかにした。非合理性のなかに規則を見出したという点では、どこかで「日常生活の精神病理学」にもつながる話のようにも思えてくるが、彼らが想定するのは深層の無意識ではなく脳内の認知システムであり、それを支えるのは検証可能な実験結果であった。
若き日のKahnemanは、建国間もないイスラエルの軍隊で働いていたときに、幹部候補生の選抜試験に携わった。伝統的な評価法を使うと、もっともらしい評価を行うことができ、確かな自信を感じることさえできた。
しかしその評価は、対象者のその後の評価と全く相関しないことがわかった。間違った評価を下しているのに、どうして自信を持ってしまうのか。それがKahnemanにとって、「認知的錯覚」の原体験となった。
Kahnemanの著作に照らせば、 Lewisの文章は「認知的錯覚」への警告に満ちていることがわかる。「患者の生活についてより徹底した分析が可能になるほど、その人の病的行動を出生後の影響に帰属させようとする傾向は強くなる。遺伝的研究には逆の効果がある」(Lewis)という一節は、「限られた手元情報に基づいて結論に飛びつく傾向は……自分の見たものが全てだと決めてかかり、見えないものは存在しないとばかり、探そうともしないことに由来する」。「手元に少ししか情報がないときのほうが、うまいことすべての情報を筋書き通りにはめ込むことができる」。
さらに、「それぞれの症例における数々の原因やその影響を正確に見分けるための確かな方法を、私たちは持っていない。だから私たちは、単純な分類法の容易さを拒まなければならない。それは偽りの容易さ、偽りの単純さであるように思われる」(Lewis)。「何らかの判断に対して主観的な自信を抱いているだけでは、その判断が正しい可能性を論理的に示したとはいえない。自信は感覚であり、自信があるのは情報に整合性があって情報処理が認知的に容易であるからにすぎない。必要なのは、不確実性の存在を認め、重大に受け止めることである。自信を高らかに表明するのは、頭の中でつじつまの合うストーリーを作りました、と宣言するのと同じことであって、そのストーリーが真実だということにはならない」。
直感と全体的秩序の整合性を重視する従来の学派に対し、直感への懐疑と検証手続きの手堅さを重視する新たな学派が打ち立てられ、時代とともに後者が前者を凌駕していった。戦後のモーズレー病院を率いたLewisは、疫学研究や環境要因の分析に基づく社会精神医学の確立に貢献し、その過程で弟子たちが行った診断基準や症状評価の標準化は、現代の精神医学の基盤になった。
B-3.象徴的な論争
1980年以降、DSM-Ⅲを足がかりとして米国が精神医学の中心となっていった。 一見わかりやすい操作的診断基準や、その後開発された新規向精神薬が世界中で流通するにつれ、さまざまな弊害が指摘されるようになった。
大うつ病の診断基準や抗うつ薬の治験データは簡単に流通しても、うつ病の複雑性に対する「慎重な態度」といったものは明示的な方法化を拒み、うつ病全体が一律に薬物療法の対象にされかねない事態がもたらされた。
2006年5月、「メランコリア」をめぐるシンポジウムが開催されて、気分障害の専門家たちがコペンハーゲンに集った(シンポジウムはLundbeck社の後援を受けていた)。そこでは、2010年に共同声明に名を連ねることになる多数の専門家が意見を交換したが、なかには懐疑的な専門家も交じっていた。
抗うつ薬の治験におけるプラセボ反応率の高さは重大な問題であり、プラセボには反応しないメランコリアの存在をもっと強調すべきであると考える点では、目立った反論は出なかった。
見解の対立が鮮明になったのは、うつ病エピソードの反復を通じて、「メランコリアの特徴」がどの程度一貫しているかに関してであった。Angst JやKessing LVといった疫学研究者は、メランコリアと非メランコリアの相違を認めつつ、縦断研究における両者の境界は不明瞭であり、同一の患者がエピソードのたびに、メランコリアになったりならなかったりする事実を示唆した。メランコリアがそれほど不安定なものであれば、当然ながら、独立したカテゴリーを割り当てるに値しなくなる。
それに対して臨床研究者であるParker Gは、何度反復してもそのたびにメランコリアになる「真のメランコリア」の存在を強調した。
またFink Mは疫学研究自体の方法論的限界を指摘した。疫学研究では必然的に、明示的な診断基準が重視されることになる。その結果、臨床医が日常業務のなかで感じとるメランコリアの「雰囲気」は、データから抜け落ちていくことになる。
この点については、どの程度が疫学研究の方法上の問題で、どの程度が臨床医の認知的バイアスの問題であるのか、厳密な考証が必要である。
メランコリアをめぐる論争には、疫学研究者の支配に対する臨床家たちの異議申し立てという側面もあったのかもしれない。
シンポジウムにも参加していたHealy Dはその後、共同研究者とともにウェールズ北部の療養所などの診療録を調べて、1875~1924年と、1995~2005年の両期間で、「抑うつ精神病」の発生率を比較した。「抑うつ精神病」はかなりの程度メランコリアと重なり合うと考えられる。
その結果、うつ病全体の発生率は減っていないのに、「抑うつ精神病」に限っては相当に減っており、うつ病での入院全体のうち、7割前後から4割弱へ減少していた。そのことからメランコリアの減少が示唆された。平均在院日数は782日から41日にまで減っていた。
彼ら自身は認めていないものの、有効な治療の普及が軽症化をもたらした、と見るのがおそらく妥当であり、研究結果は(彼らの議論とは逆に)メランコリアとその他のうつ病との連続性を示唆するように見える。
発生の減少と持続期間の短縮によって、精神科病棟における精神病性気分障害はおそらく激減しているのであり、私たち向精神薬時代の精神科医は、Kraepelinの偉業がどれほど困難なものであったのか、ほとんど理解していないのかもしれない。
2011年、共同声明の翌年にParkerは単独で、うつ病とメランコリアの操作的診断基準の代案を発表した。そこでは、「臨床的うつ病」が身体症状抜きで定義され、そのなかで「メランコリア亜型」が定義される「階層モデル」が採用されていた。
しかしそれでは、DSM-IVでの「特定用語」としての位置とどれほど違うのか疑問がある。「独自の気分障害」としての地位を求めた声明は何だったのか。メランコリアの定義はDSM-5でも変更されなかった。“With Melancholic Features”は“With Melancholia”に変わったが、これはDSM-Ⅲへの回帰に過ぎない。
大うつ病のなかの一部にメランコリアの特定用語をつける現在の診断方式は、一般には、二元論に対する一元論の勝利を意味すると考えられがちであるが、それは恐らく間違っている。ここに現れているのはFoulds GAの階層、つまり、「神経症性」うつ病に広く共有される特徴は「精神病性」うつ病にも共有されるがその逆は言えない、ゆえに前者は後者の除外により診断されなければならない、という原則である。実際、「神経症性」うつ病は余りに多様である。二つのうつ病の分離を固く信じるParkerのような人でも、この原則には逆らえない。
おそらく、有効な治療の普及はうつ病を軽症化させているが、それはうつ病の「わからなさ」を深めることにもつながっている。
メランコリアこそ医療モデルの確かな適応範囲であるはずだが、かつてよりも狭く境界も不安定な小島になってしまった。
80年前にMapotherやLewisが、絶望の淵から患者を救おうとしてうつ病の二元論を否定したことを思えば、この間の変化は驚異的とも言えようが、DSMの改訂を前に起きたメランコリアをめぐる騒動は、「何か」が失われようとしていることを訴えるための、象徴的な論争であったのかもしれない。
C.メランコリータイプについて Typus Melancholicus
C-1 流行と反復
1961年、 ドイツ、ハイデルベルクのTellenbach Hは「メランコリー」を著し、几帳面、勤勉、良心的といった、メランコリー者(基本的には単極性「内因性」うつ病の患者を意味する)の特徴的な性格と発病状況を描き出した。rメランコリー親和型」と訳されたこの性格傾向は、下田の執着気質との共通性もあってわが国で強い関心を呼び、1975年には、笠原と木村の分類に取り入れられることとなった。
この分類は、病前性格、発病前状況、病像、治療への反応、経過の5項目における特徴を組み合わせて、うつ病および躁うつ病を6つの型に分ける試みであったが、なかでもⅠ型は、Tellenbachのメランコリー親和型性格あるいは下田の執着気質の持ち主で、「几帳面、律儀、仕事好き、強い責任感、熱中、他人との円満な関係の維持」などを特徴とするとされ、わが国ではこれが長らくうつ病の典型例と見なされた。しかし国際的に見ると、メランコリー親和型はドイツ、日本、イタリアと、主に旧枢軸国で愛好されたものの、英米系の精神医学で話題にのぼることは滅多になく、また本国のドイツでさえ日本ほどの関心を集めてはいなかった。
このように、好ましい特徴を備えた、かなり特殊な典型例が、日本の精神医療の場で流通することになったが、時間が経つと、「メランコリー親和型は減っているようだ」、「新しいタイプのうつ病が増えている」という主張が繰り返されるようになり、かつて過労の結果と見られていたうつ病は、怠惰の現われとさえ見られるようになってしまった。医療人類学者の北中が指摘する通り、このようなうつ病観の変遷にはよく似た先例がある。
19世紀後半から20世紀初頭にかけて、米国に始まり世界中で流行したあげく(疾患概念として)消滅した神経衰
弱neurastheniaは、当初は有能な男性が過労によって陥り、休息によって回復すると信じられていたのに、やがて、エリートの男性に特に多いとは言えないこと、休息だけでは治らない場合も多いことが知られるようになると、次第に怠惰の現われと見なされるようになっていったのである。このようなことは何故繰り返されるのであろうか。これはいったい何の症状であろうか。現象の反復は、認知的要素の関与を示唆しているかもしれない。以下で、精神疾患の見た目の増減をもたらしうる認知的要素を列挙してみる。
C-2.認知的諸要素について
i)プロトタイプ照合法の不安定性
1980年以降、DSM-Ⅲによって操作的診断基準が一般的になる以前は、診断はプロトタイプ(典型例)の記述にどの程度近いかをもとに下されていた。その後流通した操作的診断基準に対する不満もあり、プロトタイプ照合法の見直しが提案されたときには議論を呼んだが、その際のMaj Mの批判は示唆に富んでいる。一般的には、「決定的特徴法」(現行の操作的診断基準を指す)よりも、「プロトタイプ照合法」の方が、人間の認知過程に馴染むものとされてきた。自然な臨床の過程では、一連の症状がそれぞれあるかないかを確かめたり、その症状の数によって診断を行ったりはしない。
代わりに、臨床家が訓練や経験を通じてつくりあげてきた精神疾患のテンプレートのいずれかに、患者の特徴が対応するかどうかを確かめる。しかし問題は、見かけよりも複雑である。ある臨床家が、ある患者について、プロトタイプの特徴のいくつかを持つという理由で、それに当てはまると結論する一方、別の臨床家は同じ患者について、プロトタイプの別のいくつかの特徴を持たないという理由で、それに当てはまらないと結論する、ということも起こりうる。操作的診断基準が修正しようとしたのはまさにこのバイアスであり、DSM-Ⅲ以前の混沌に戻るリスクは軽視されてはならない。不安定な診断方式は、当然ながら外的要因の影響を受けやすい。
ii)精神症状の認識論
Berrios GEによれば、現代の精神科診断法は症状認識の過程に関する誤解のうえに成り立っている。精神症状はとらえどころのない不安定な構成物であり、それを個別に見出してから疾患を同定するという現代の診断学における前提は、精神科臨床の実際とは懸け離れている。「精神科研修は伝統的に、疾患の認識に焦点を当ててきた。一方、症状の認識については、『同じ』症状を呈する症例を繰り返し見せて、「目に見える」定義を示すことで教えられる。研修医は「プロトタイプ」を思い描き記憶し、そのプロトタイプを症状認識におけるテンプレートとして利用するものとされている。このような学習過程は、疾患の認識と同時に生じている。つまり、(疾患認識と症状認識という)両過程は、精神科医の内面において、訓練の初期から分かちがたく結びついているのである。
未熟な精神科医が、精神症状の認識にプロトタイプの参照を必要とし、精神科医が成熟するにつれて、個々の精神症状を単独で同定できるようになっていくとしたら、当初はプロトタイプとの類似が、後にはプロトタイプとの差異が、認識されやすくなるであろう。精神科医個人の熟練過程に沿って考えれば、プロトタイプ通りの症例が徐々に減っていくようにも感じられる。新しい疾患概念が流通する際にも、似たような変化が生じることも考えられる。
iii)ハロー効果
1969年、当時モーズレー病院(精神医学研究所)にいたKendell REは、うつ病の二元モデルを批判するなかで次のように書いている。Thorndikeや他の学者の研究の結果、行動や性格特性の評定は、評価対象に関する一般的な考えやステレオタイプによってバイアスを受けやすいことが示されてきた。この、いわゆる「ハロー効果」は、評価者の熟練度とは無関係に影響するのであるが、このことから、私たちの臨床評定も同様にバイアスを受けやすいと考えられる。用いられる概念の多くが、「病前の不適格なパーソナリティ」とか「ヒステリー的特徴」といった、曖昧で不明確なものであるときには、とりわけその可能性が高い。いわゆる「内因性」うつ病と「反応性」うつ病とが、典型的には大きく異なること自体は間違いないとして、ふたつのうつ病がある、と言えるほど一貫した差があるのか、それとも両者は連続体の両端に過ぎないのか。戦前のMapotherやLewisに代わり戦後に二元論批判の主導者となったKendellは、二元論を裏付ける(中間的な症例が少ないことを示す)Kiloh LGやRoth Mらのデータがハロー効果の産物ではないか、と示唆した。
Rosenzweigはハロー(後光)効果について次のように説明している。「ハロー効果にはいくつか種類がある。一つはThorndikeが発見したもので、全体の印象から個々の特徴を判断する傾向である。多くの人にとって、一つ一つの特徴を個別に評価するのは難しい。そこで全部を一緒くたにして考える」。「ハロー効果とは、認知的不協和を解消するために、一貫したイメージをつくり上げて維持しようとする心理的傾向である」。臨床研究における評価は、形式的には、各項目を個別に評定することになっているが、項目によっては全体の印象から影響を受けることもあり、その結果、うつ病の分類に関する評価者の先入観によってバイアスが生じる。細かい項目別の評価を行わない日常臨床では、バイアスはさらに強まる。「ハロー効果は、認知的不協和を解消するためだけのものではない。具体的な評価が難しい事象について、それがどんなものなのか、だいたいのイメージをつかむために用いられる経験則でもある。」
「私たちには重要かつ具体的で見たところ客観的な情報をつかみ、ほかのもっと曖昧な特徴をそこから判断しようとする傾向がある」。「もっと気をつけたいのは、信用できると思われる手がかりをもとに、それ以外の面も評価してしまう人間の自然な傾向である」。ドイツ精神医学の用語で言えば、「疾患」と「反応」は、あくまでも概念上の区別に過ぎず、実体は連続体であるのか、それとも両者は、実体として完全に区別できるのか、という問題になる。
疾患と反応の区別を提案したJaspers K自身は「真の反応と病的過程の増悪とを根本的に区別できるのは極端な場合に限る」と書いているのに、継承者とされるSchneider Kの方は「我々は移行を思わせる例をほとんど見出していない」ので、「我々は、異常パーソナリティ・異常体験反応と統合失調症性精神病・循環病性精神病の間には、際立った鑑別診断学が存在することを確信している」と書いている。
ある人のすべてを、自分の目で確かめてもいないことまで含めて好ましく思う(または全部を嫌いになる)傾向は、ハロー効果として知られる。ハロー効果は、「よい人間のやることはすべてよく、悪い人間のやることはすべて悪いという具合に、評価に過剰な一貫性を持たせる働きをする」。プロトタイプ化を拒み続けるLewisの主張や、対照的なプロトタイプ間の連続性を強調するKendellの主張は、ハロー効果批判として読むことで理解しやすくなるかもしれない。
Tellenbachによるメランコリー親和型の性格描写は、几帳面や勤勉といった「好ましい」性質に主眼を置いているのは確かであるが、メランコリー者たちは、自分自身で作り出した状況を解決する能力がないために破綻を繰り返し、下層中産階級や従属的な地位に留まらざるを得ない存在でもあった。
「自己中心的な対人的配慮」といった表現にも見られるように、記述は全体として、価値的な両義性を含んでいたように思われる。つまり、好ましい面と好ましくない面とが表裏一体のものとして捉えられていたように見える。
下田による執着気質の描写も、好ましい面が好ましくない面へと変わりうる両義性を含んでいた。しかし、平沢によって再発見された執着気質ではこのような両義性が薄れており、さらに笠原・木村のⅠ型ではある種の理想化が働いているようにも見える。
彼らの秩序愛の表現は「すべて対人的配慮の裏打ちをもった秩序愛であって」、「他者へのおもんぱかりを欠いた、いわば自己完結的な秩序愛と異なる」。そしてこの理想化は、「未熟依存的」性格を特徴とするⅢ型との対比によりいっそう明瞭となる。Ⅲ型にも「ときに几帳面さ、きちんとしないと気がすまないといった特徴」が見られることもあるが、「それは自己中心的自己完結的な強迫性」であるという。しかしその区別はどの程度明瞭であろうか。「ハロー効果は両義性を覆い隠す」、つまり両義的な特徴は「第一印象でできあがった文脈に合わせて解釈されることになる」。
Ⅰ型とⅢ型の鑑別はときに困難であるが、鑑別法のひとつは、治療への反応の差異に注目することである。「第Ⅰ型の治療法においては抗うつ剤の効果もさることながら休息のもつ治療効果が大きい」のに対し、「第Ⅲ型では休息はそれほど効果をもたず、結局精神療法なしには好転しない」。好ましい性格のⅠ型と良好な経過が、好ましくない性格のⅢ型と難治の経過が組み合わされて、価値的な対称性はいっそう明瞭になる。よく読めば難治性のⅠ型についても書かれているが、明瞭な対称性の陰にかすんでしまっている。そして、治療反応性に基づく分類の「見直し」がひとり歩きし始めると、分類の濫用がもたらされる。「もし独立変数が従属変数と切り離して測定されていなければ、私たちはハロー効果にどっぷり浸かっている危険がある」。
このような場合、本人は「分類」を行っているつもりでも、傍から見るとそれは、「治りやすい患者は好ましく、治りにくい患者は好ましくない」という表明と、次第に区別がつかなくなる。
北中は次のように書いている。「精神医学の言説はしばしば同じような拡大・収縮運動を繰り返してきたようにもみえる。神経衰弱がそうであったように当初さかんな啓蒙によって多数の患者が『発見』される拡大の時期がある。これは多くの人々に医学的救済を与え、恩恵をもたらす。しかし、『疾病』としての精神障害の境界線は曖昧であり、人々がさまざまな苦悩をその疾患にあてはめていくことで、概念は急速に拡大していく。あまりに拡散した疾病概念は、医学的有用性を失い、この時点で概念の収縮運動が医学内部から起こってくる」。あらためて「真性」の病と「それ以外」の区別がなされ、「真性」の病こそが、医学の対象として再定義される。
そして、このカテゴリーにあてはまらない人々の病はしばしば「心因」の病、本人の問題としてスティグマ化されていく危険に陥る。同時に、すでに啓蒙を通じて「精神科患者」となっている人々は、その苦悩が解決されることのないまま、行き場を失っていく。精神医学において、新たな疾患概念やプロトタイプが提案されると、価値的要素を含むプロトタイプの場合は特に、当初は新奇性と陽性のハロー効果が重なり合って診断の「流行」が生じるが、やがて新奇性が薄れると幻滅の時期が来て、今度は陰性のハロー効果が幅を利かせる、といったメカニズムが働くことは多分にありうる。
わが国のうつ病の場合には、米国由来の「大うつ病」の受容に伴う混乱が、事態をさらに複雑化させたかもしれない。親しんできたプロトタイプ分類は過去のものとされる一方、個人誌の詳細な検討など、英米系精神医学の前提は知らされていないという文化的断絶において、幅広いカテゴリーの多様な患者群に向き合った日本の精神科医は、うつ病診療自体に密かな陰性感情を抱くようになり、それによってハロー効果が増幅されたかもしれないのである。
メランコリー親和型性格者は減ったとよく言われるが、減ったのではなく単に少なかったという可能性はないだろうか。つまり、いつの世も、日本人精神科医は、メランコリー親和型性格者の数を実際よりも多く見積もりすぎてきたのではないだろうか。もしこのことが立証できれば、メランコリー親和型はイデオロギーとしていかに強力だったかを物語ることになるだろう。
iv)うつ病は多様化したのか
メランコリー親和型への信仰が薄れると、これまで注目されてこなかったうつ病の側面に光が当てられるようになった。北中は、本来多数派であるはずの女性のうつ病が、Ⅰ型支配の陰で認識されにくくなっていた可能性を指摘した。そもそも、Tellenbachの「メランコリー」で分析の対象となった119例中82例(69%)は主婦であり、その大半は下層中産階級に属していた。
これに対して笠原・木村のⅠ型では「すべての年代において男女間に差はない」とされ、さらに提示された4症例中3例が男性であった。この「男性化」傾向は流通の過程でさらに増幅され、うつ病の典型例としてr仕
事で燃えつきた中高年サラリーマン」というイメージが広く共有されることになった。地位の高い勤勉な男性のイメージは、本来は下田の執着気質論のなかで提示されたものであった。
疫学研究に支えられた英米系のうつ病論では、幼少時における虐待や両親の機能不全、青年期における行動上の問題や薬物依存、そして現在における生活上の問題といった、一連の困難を抱えながら発病する「逆境型」の症例が、プロトタイプのひとつとなっている。
わが国のうつ病論のなかで、このような症例が話題になることは稀であった。うつ病の従来のプロトタイプ分類は、実証的な裏づけは困難でも臨床的には有用ではないか、という主張もある。しかし、特定のプロトタイプへの注目が、他の認識を困難にしうるとしたら、どうであろうか。また、臨床家によるプロトタイ
プの選択に、性別や経済階層による関心の偏りが微妙に反映されているとしたら、どうであろうか。
C-3.実証的研究
「雨のしずくがつくる波紋は、はじめは小さく明確だが、大きくなるにつれて他を飲み込んだあげく消えてしまう。精神医学の世界でも、疾患が出現しては拡大し過ぎていき、ついには無効になってしまうことが繰り返されてきた」。1909年にBumke Oが書いたというこの一i節はJaspersの引用によって知られているが、Kendellも1975年にこれを引用し、国際的な診断基準の重要性を説いた。このような認識のもとで、DSM-ⅢやICD-10は操作的診断基準を採用した。1980年代末から2000年前後まで、操作的診断基準も使用した実証的研究によってメランコリー親和型の重要性を裏付けようとする試みが繰り返された。わが国の研究では、大うつ病性障害の罹患者にメランコリー親和型の者がより多いことを示す知見と、それを否定する知見とが相半ばした。
より重要に思えるのは、メランコリー親和型と、予後や病像(メランコリアの特徴)とのあいだに、何の相関も見られなかったことである。
C-4.全体主義の残像なのか
終戦から17年後の1962年、九州大学の吉永は次のように書いている。「最近の当教室における臨床経験によると、躁うつ病者の示す病前性格像が、執着性性格の類型像で、把握されにくいものが多いようで、その典型例には、調査者としての、わたくし自身も、まだ出遭っていない。このような実状から、執着性性格像としては、型のくずれたものが、むしろ、昨今の病前性格として、臨床的に認められる具体的なあらわれではなかろうか、との印象を受ける」。
そして、九大病院精神科で治療を受けた躁うつ病患者のカルテを調べ、戦前期(1934~1936年)、戦中期(1941~1943年)、戦後期(1948~1950年)、現在(1955~1957年)の4つの時期に分けて、病前性格の記載を分析した。その結果、熱中性、責任感、率直の3項目は、終戦を境に大きく減少していた。一方、几帳面、徹底
的の項目については有意な変化は見られなかった。この結果を踏まえ、「執着性性格で表現されている類型、ことに社会的価値観の変化に影響されうるその性格標識群については、病前性格として不充分であったと見倣されることになろう」と考察している。
時代はすでに高度成長期の最中であった。総力戦に向けて組織された「一九四〇年体制」が戦後に持ち越され、奇跡的な経済復興を実現させたと言われている。「日本型企業」で「とくに問題なのは、労働者が一つの企業に『閉じ込められている』こと」。「『年功序列』とはいっても、それは個別の企業に限定され」ていることであり、「したがって、会社からどのように過酷な労働を強制されても、拒否するわけにはゆかない。単身赴任や長時間の残業を命じられても甘受しなければならない」。「そして、上司への従順な態度、個人よりも会社の要求を優先する態度が蔓延する」。
「日本の労働者の働き方は、必ずしも高い組織コミットメントや会社への忠誠心によるものではない。それは、そうした働きを強制する制度の結果と解すべき」であるとの見方もあった。メランコリー親和型のプロトタイプが形成されたのは、そのような時代においてであった。「メランコリー親和型をめぐる言説は、日本人らしさについての静的、無時間的かつ均質なイメージをつくりあげることによって、うつ病患者たちの複雑性や多様性を隠蔽してきた」とも指摘されているが、確かに、「『日本的』と言われるものの多くは、実は古くからあった本当に日本古来のものなのではなく、一九四〇年体制的なものなのだ」とも言われている。
高度成長を支えた戦時体制もやがて社会の桎梏へと変わり、1990年代になるとさまざまな改革が試みられるようになったが、それは戦後生まれの世代が中年期を迎える時期でもあった。2000年頃からは新規抗うつ薬の導入に伴って、メランコリー親和型の理論が改めて一般に紹介されたが、旧来のイメージと現実とのギャップが明らかになるまでに、それほど時間はかからなかった。
「国家機構とは、喩えて言えば閉じた人体のような全体であって、我々医師なら知っているように、そこでは全体の福祉のために、用済みになったか有害であるような部分や断片は、放棄され切り捨てられるのである」(Hoche A)。
「人間の脳の一般的な限界として、過去における自分の理解の状態や過去に持っていた自分の意見を正確に再構築できないことが挙げられる。新たな世界観をたとえ部分的にせよ採用したとたん、その直前まで自分がどう考えていたのか、もはやほとんど思い出せなくなってしまう」。
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Parker Gの1991と2012におけるA.退行期メランコリー lnvolutional Melancholia