(1)脳は現実を脳の内部で構成する
ある一つの出来事が目の前で起こったとして、その情報は目からも耳からも鼻からも伝えられ、脳内に届く。その時、伝達されて情報統合部分に到達する時間はそれぞれ違うはずであって、しかしそれでも、それらを、一つの出来事が起こって、光や音やにおいが同時に発生したと脳が判断している。本当は違うものかもしれないという疑念はあるが、日常生活の経験から、そのような疑念は否定される。
例えば、目の前で爆弾が破裂したとする。その時、光と音と臭いと、場合によっては熱を感じるだろうし、腕に爆弾の破片が飛んでくるかもしれない。光が早いのは当然で、音がその次、臭いは少し遅いだろう。熱はどのタイミングからよく分からないが、破片が飛んでくるのはさらに後のことなのだろう。
光は眼球に入り、情報化されて、脳の統合処理部分に届く。音は聴覚を経由して、神経信号となり、同じく脳の統合処理部分に届く。この二者の場合、網膜から脳の統合処理部分までの距離と、聴覚神経から脳の統合処理部分までの距離は同じはずがないので、ここでも、わずかだろうけれども、到着時間のずれが生じる。臭いも、温感も、接触感覚も、同じ事情がある。
雷の場合が分かりやすい。光が見えて、そのあと少し時間が経過してから、音が聞こえる。光も音も恐怖を引き起こすが、その二つの間の時間のズレが大きいほど、遠くの雷だと我々は知っている。これは極端な例だが、光の性質と音の性質の違いである。しかしそれでも、人間の脳は、この光と音が、雷という一つの事象の経験なのだということを知っている。数秒ずれていても、一つの出来事だと脳が判定している。
目の前の爆発も同じようなもので、光、音、臭い、熱、物体などはそれぞれの仕方で人体に到達し、そのあと神経信号に変換されてからも経路がそれぞれ違うので、脳の統合処理部分に到達する時間は別々のはずである。しかし脳がそれらを統合して、一つの体験だと判断している。
(2)予測と現実
人間が何か運動をするとき、予測が生じる。野球でピッチャーが、次は内角に投げようと思うと、
(いま思ったけど、どうして内角というのだろう。内側と外側のはずだ。高め、低めというが、これも内角外角と呼応していない。in-high,out-lowというから、内外高低でいいのだろうけれども、音読みだと意味が伝わりにくいし、訓読みだと締まらない、そこで、内角、外角と意味の分からない言葉を使っている。高め、低めでいえば、うちめ、そとめでいいはずだが、そうは言わない。慣れの問題なのだろう。out-lowはやっぱり外角低めであって、そとめ低めでは締まらない。低めを漢語でいえば例えば、低域、高めは高域といえばよいと思うので、外角低域という言い方になっていたとしてもおかしくない。しかしやはり外角と低めは呼応していない。)
体をこんな風に使って、腕はこんなふうで、指はこんな感じという特有の感覚の連続があって、投げた瞬間に、「あ、これは内角に行くぞ」などと思うのだろう。それが予測である。現実にキャッチャー・ミットにおさまると、結果が見える。
このようにして、人間の運動の場合、運動前の意図と運動直後の予測と、現実の結果が考えられる。意図と予測と結果である。ピッチャーは意図と結果が一致するように練習する。もう少し細かく言えば、意図と予測が乖離することはある。予測と結果が乖離することもある。この三者が一致しないとうまくいかない。
運動前の意図は内角高めだったとして、投げた直後の予測は真ん中高めだということもある。そしてその予測が外れて、結果はど真ん中ということもある。意図から結果はずれて、予測から結果がずれる。そういうこともある。
運動前の意図と運動直後の予測はそれぞれが脳の統合処理部分に送られて、比較照合され、必要ならば意図から筋肉の使い方の過程が訂正される。内角高めに投げたいと意図して、投げた瞬間には内角高めに行くだろうと予測する、この二つが一致するように練習する。さらに意図と結果の照合と訂正がある。また予測と結果の照合と訂正もある。自分の中で、これら三者の違いが分かるなら、改善の余地がある。違いが分からないなら、進歩の余地がない。
このあたりを表現を変えて説明すると、こうなる。投手の頭の中では、こう投げたらこうなって、ボールはこんなコースで、ベースボールの上ではこのあたりを通る。するとバッターはこんな感じで振って、空振りか、あたってもファウルだろう。このような脳内シナリオが描かれている。
そして実際に投げると、筋肉は動き、ボールは放たれ、ベースボール場を通過し、バッターは空振りをする。
その結果を見て、自分の脳内シナリオと一連の現実結果を照合する。同じなら脳内シナリオは正しい。同じでないなら脳内シナリオは正しくないのでどこかを訂正して、現実を正しく写し取るものにしなければならない。
このようなことを繰り返していると、脳内のシナリオは次第に精巧に現実を写し取るものとなる。つまり、物理法則が脳に内在するようになる。
脳内に法則があるのだから、物理学が成立するのは当然だ。
物理法則は脳の外部の自然の法則なのか、脳の内部の法則なのかと、その二つがどうして一致するのか。
つまり、物理法則を記述するときに数学を用いるが、その数学はなぜ自然を予言するのかつまり数学と物理額はなぜ一致するのかという問題である。そうカントは問題を出した。答えはしばらく得られなかったが、コンラート・ローレンツが、進化論的に考えれば、外界の物理法則が脳内のシミュレーション回路に転写されて、それが脳の基本となり、よりよく自然を転写した脳が生存率が高かったので、進化の過程で多数になった。こうして、数学は物理学を語り、予言さえするものとなった。
(3)予測と現実のズレ
未完