下書き うつ病勉強会#171 体験の分析・体験の本質

絵画の本質
たとえとして机を使いましょう。机の絵画=机の机らしさ=机の体験-机そのもの

体験の分析
ふとしみじみと、ああこれが「机の机らしさだ」「しみじみと机らしい」と思う瞬間がある。
離人症という症状がある。離人症では「机の机らしさ」つまり「机の実感」が失われる。しかし「机である」との認識は保たれている。机は何のために使われ、原料は何であり、そんなことはよく知っている。ただ「しみじみとした机らしさ」が欠落する。そのような状態が人間の意識には可能であることがこれから先の手かがりとなる。
「風景を見ても、絵はがきみたいだ」
「風景がガラス越しみたいだ。一枚ベールがかかっている感じ。」
従って、「机の体験=机そのもの+机らしさ」である。
移項すると、「机の机らしさ」=「机の体験」-「机そのもの」となる。
そもそも、風景そのものと、一流絵画と、絵はがきが違うという言説自体が怪しいという意見はある。絵はがきは手がかりであって、現実の体験を思い出すきっかけになればいいのであるから、絵はがきの中にすべてがある必要はない。一流絵画と絵はがきを比較して、絵はがきは本物の芸術でなはいから二流だとする考え方には反対。手がかりだとしてもそれは風景に対しての手がかりである。
反論2。フランスの絵はがきは日本の絵葉書よりも原色を忠実に再現しているとする説。本物が最高で、それに近いほど、偉い。芸術はそんなものだろうか。疑問に思う。
離人症の場合には、「机の机らしさ」=0となり、「机の体験」=「机そのもの」となる。
これが離人症の場合には耐え難く、そのゆえに死ぬことを考えるという。
ここで、「机そのもの」=0とすれば、「机の机らしさ」=「机の体験」となる。これは一般に芸術が求めているものに他ならない。机は目の前にない。しかし画布の上に「机らしさ」が存在している。これは大変奇跡的な事態である。
机だから絵画が例として適当であるが、描かれた絵画は、四次元的属性を持たない。ただ画布の上に絵の具が塗ってあるだけである。それなのに不思議なことに、そこにはわたしたちにとっての「机らしさ」そのものがあるのである。ゴッホでは「ひまわりのひまわりらしさ」であり、セザンヌでは「サント・ヴィクトワール山のサント・ヴィクトワール山らしさ」がそこにある。わたしはモネの睡蓮の「睡蓮らしさ」と「睡蓮の実感」が好きだ。
なぜそのようなことが可能であるか?
それは脳の特性について手がかりを与えてくれる。
たとえば、「机の机らしさ」の感覚が、「机そのもの」の感覚に時間的に遅れて発生したらどうなるだろう。あるいは、その逆ならば。
上記の遅れて発生するタイプのものは離人症の一種と言っていいだろうと思う。
そもそも人間の感覚は、視覚、聴覚、触覚、嗅覚など諸種のもので、脳までの伝達経路に違いがあるので、厳密には体験の時間差が生じているはずである。それがあたかも同時発生的であるかのように脳の内部で調整している。その調整がずれたら、かなり苦しいことになる。そのような症状を考えてみてもいいだろう。
一番困るのは、自由意志の発生が体験に遅れる事態である。これはさせられ体験であり、統合失調症で発生する。

「連歌の美は花や鳥の美しさではなく、花らしさや鳥らしさの美しさなのである」ドナルドキーン序文。

「花」=「花そのもの」+「花の花らしさ」

「花の花らしさ」を描けば絵。詠めば歌である。
「花そのもの」は不在であったとしても、「花の花らしさ」は存在することが可能である。
「花の花らしさ」を抽出純化すれば、それにより歌の優劣を決することまでができるようになる。そうした美意識が日本語の背骨になる。

このようにして、花の花らしさ、または物のものらしさ、事柄のそれらしさを体験することが生きることの意味とかかわっているのではないかと思う。

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