下書き うつ病・勉強会#1異常と正常

今回は「うつ病」について勉強してみましょう。

・症状
・原因
・治療
・家族サポート
・予防

の項目に分けて考えます。

・症状

うつ病で見られる症状としては、「憂うつ気分」という言葉から分かるように、気分の領域の問題であり、さらに「憂うつ、気分が重い、落ち込む、暗い、沈んでいる、悲観的」というようなマイナスの気分だろうということが第一に挙げられます。「うつ病」なのだから気分が「うつ」なのは当たり前ではないかとなりそうですが、「うつ」とはどんなもので、どんなものは「うつ」ではないのか、あるいは、日常の言葉で「憂うつだ」「うつうつとしている」などと言う場合と、専門用語として「うつ症状」という場合の、違いも問題となるわけです。メランコリーとデプレッションはどう違うでしょうか。イライラして暴力暴言を繰り返し、アルコールにおぼれている人はうつ病と言わないでしょうか。

「気持ち」「感情」「気分」「Feeling」「Affection」「Mood」などについて、似ているものとしてよいか、違うものだと区別するのが大事なのか、そんな問題もあります。

「うつ」の反対は何かと考えてみるのも役に立ちます。躁うつ病といいますから、「そう状態」が反対の言葉として定義されているのですが、日常の言葉として「うつ」もあまり使いませんが、「そう」はなおさら使いません。「躁」という漢字はほぼ使いませんね。読めるけど書けない人もいるのではないでしょうか。「憂うつ」なら使いますが、天気が憂うつだとか、上司との面談が憂うつだとか言いますが、病気とは関係ない言葉です。

病気の「憂うつ」とはどんなものでしょうか。
「病気だというくらい重いうつなんでしょう」と考えられますが、「重いうつ」とは「長く深いうつ」と考えてよいのでしょうか。それとも質的にちがうものなのでしょうか。

では「短くて軽いうつ」を考えてみましょう。会社を一日休んで役所に行って書類を作らなければならないとしましょう。うれしいと思う人もいるでしょうけれども、場合によっては「めんどくさい」「やりたくない」などと「短くて軽いうつ」を感じるかもしれません。
しかしその場合でも、一般に、「原因がなくなれば回復する」「回復にさほど時間はかからない」「そのことで社会生活に支障をきたすことはない」「大事な人間関係を壊すことはない」「身体症状を呈することはない」くらいの範囲のものでしょう。

「長くて深いうつ」を説明すると、「2週間以上、絶え間なく続く」「社会生活や対人関係や自分の人生計画に悪影響を及ぼす」程度の「気分の落ち込み」などと言えるかもしれません。
しかし「病気」と認定できるのでしょうか。正常な気分の変動と「病気」とはどのように区別できるのでしょうか。

「正常」と、「病気」または「異常」とを区別できるのでしょうか。
医学的な常識としては、「不調」は「身体機能の異常」と考えられ、身体機能の異常にはそれを引き起こす「身体構造の異常」があるはずです。機能には構造の裏付けがあります。そこで顕微鏡を使ったりして、「構造異常の所見」を確定します。それが明確になれば、病気として確定されます。血液検査の異常などは身体の構造異常から引き起こされる身体機能の異常の結果として生じるものです。
精神病の場合、脳の機能異常とするまではよいとして、手順としては、病気ではないかと考えられる場合に、脳神経細胞を顕微鏡などで観察して、構造異常が確定できたら、疾病として確定できるわけです。たとえばパーキンソン病では中脳黒質や線条体にあるドパミン神経細胞の機能異常が起こり、ドパミンが減少します。そのとき構造異常としてはドパミン細胞の中でαシヌクレインというタンパク質が凝集することなどが知られていますが、本質的にはその神経細胞がドパミンの伝達に関して機能異常を呈する、その原因となる構造を見つけられれば、病気として確定すると考えます。

脳血管障害では脳血管に構造変化を観察できます。脳腫瘍では構造異常として腫瘍が観察できます。脳外傷も構造変化が起こります。アルツハイマー病ではやはり特有の構造変化が起こり、顕微鏡で確認できます。

このように、機能異常の裏付けとなる構造異常が確定されて、病気と認定できるのです。古くからある道具は光学顕微鏡であり、その後は電子顕微鏡があり、そのあとはDNA分析装置があります。DNAの構造変化が、最終的な機能異常を引き起こしているわけです。

精神病でも構造異常が確定されて観察可能なものはものはいくつもあります。脳梅毒もその例です。プリオン病もそうですね。付け足しですが、梅毒は最近若年者に増加して問題になっています。時間がたてば脳梅毒の鑑別診断が問題になり、昔の診断学が復活するでしょう。プリオンは最近聞かないですね。アメリカの牛肉産業を守るために、プリオン問題には触れない方針のようです。アメリカで食べる牛肉はきちんと検査しているが日本に輸出する牛肉は別枠だとか。

さて、うつ病、躁うつ病、統合失調症、不安性障害、強迫性障害、PTSDなど、いずれも「構造異常」の発見ができていません。ですから、厳密な意味での確定診断はできないことになります。しかし一方で、病気だという確定的な証拠がないから病気ではないというのも正しくないようで、医学の長年の経験から、これら状態が病気であることは確かなことのようです。まだ脳の構造異常が確定できていないだけです。

構造異常が確定できれば、元に戻る軽症のうつと、精神病としてのうつの鑑別ができるでしょう。しかし現状ではそれができないので、現在の症状や症状の経過から鑑別できないかと考えます。

うつ病、躁うつ病では重症タイプもありますので、軽い気分変動と鑑別したいわけです。正常の軽い気分変動と、病気の気分変動はどう違うのかが、次の関心になります。

精神の話をしているのだから、脳神経細胞の構造異常ではなく、精神構造の異常を考えたらどうかという話もあります。それが精神病理学です。ドイツではドイツ哲学を基盤として過剰に哲学的になり、英米から敬遠されました。日本はどちらかと言えばドイツやフランスの流行の哲学を勉強して「翻訳哲学」を基盤にした「翻訳精神病理学」を築いてきたのですが、英米が経済・軍事・学術の中心になるにつれ、英米流の精神医学が中心になります。英米の主流はドイツやフランスの哲学応用の精神医学は科学ではないだろうとの考えが強く、流行哲学依存型精神病理学はやめようという流れです。個人的にはどの人も勉強家で哲学にも関心は持っていることは確かです。しかしそれをあからさまに外に出すのはクールじゃないというところです。

実存哲学的精神病理学とか。文化人類学とか脱構築とか。時代と地域によっていろいろやったものです。現象学的という立場があり、これは、そのような知的枠組みをいったん取り外して、現象をありのままに記述しようという、まあ、言われれば当然のことですね。たとえばキリスト教的に「原罪神経症」だとか「天使症候群」とか言っても、時代が変わり地域が変われば、何を言っているのか、理解できない。だからカルテに精神医学用語で書くよりも、ビデオで撮影して、残しておいたほうが後々役に立つともいえる。現象学は、一面では、たったそれだけのことを非常に難解にローカル哲学用語で言うものだから、不思議だともいえる。そうした活動をした人たちはそれぞれ哲学教授として生きていかなければならなかったわけで、理解はできるし、同情もする。しかし現代の立場で、哲学的になにかいろいろ立論することはクールではない。

とはいうものの、思弁的に精神構造の異常を考えてみることはできますし、成果もありますので、次に紹介しましょう。

一方では、精神の構造がどのように分析されたところで、何の役にも立たなかったではないかとの反省があります。哲学的精神病理学が先細りとなったころには、英米で精神分析が少しだけ受け入れられました。哲学みたいな難しいことを言わなかったので米英としては受け入れやすかったのでしょう。しかし薬剤の開発が続き、薬物療法が進展した現代では、第一が薬物療法で、第二が精神療法です。

昔はエネルギー論で考えていましたから、精神についても、エネルギーを考えました。精神エネルギーと呼ぶとして、それが低下するからうつ病になるのだと考えたらどうだろうかというわけです。

精神エネルギー低下で説明できるものとしては、抑うつ気分、興味減退、喜び減退、易疲労感、気力減退、無価値観、思考集中低下、決断困難などが容易にあげられます。

制止については、ガソリンがないとかアクセルが踏めないではなく、ブレーキの作用が強すぎるイメージですね。ブレーキをかけるにもエネルギーが必要かなと思いますが。アクセルが踏めないことと、ブレーキがかかりすぎることはやはり違うのではないか。ブレーキだからネガティブだとの主張もあるかもしれません。

精神運動抑制などと言う言葉もあります。何のことか、歴史とともによく理解している人もいれば、関係ないよ、うつっぽいってことでしょうという態度の人もいるでしょう。

死にたい気持ちについても、ネガティブな気持ちには違いないでしょうが、精神エネルギーが低下すれば死にたい気持ちも薄れるなどと言われます。

ついでになりますが、「ネガティブな気持ち」というものも、よく考えてみると定義しにくいものです。陰陽や正負は最初の定義の仕方によるもので相対的なものですから、定義が難しいところです。たとえば、「私は絶対に・・したくない」と言ったとして、形式としては強い意志ですから、精神エネルギーがたくさんあるように思えます。一方、「・・」のところに何を入れるかですが、「私は絶対に集中したくない」「私は絶対に頑張りたくない」「私は絶対に勝ちたくない」などを考えると、精神エネルギーが多いのか少ないのか分かりません。

蒸気機関車発明の流れからは脳についての精神エネルギー論になりました。フロイトの若いころの話は水力学モデルと言われたりします。そのあと、たとえば電話交換機が発明された時期になると、人間の脳を電話交換機のようなものとして説明しました。現代になるとコンピュータの時代ですので、脳をコンピュータのようなものとして説明するようになります。コンピュータで自意識を生成することができるか、などが議論されます。量子力学がさかんになれば、それに沿った説明が出てきます。つまり、脳神経細胞を説明するときに特有の方法論がなく、その時々に流行していた哲学論とか自然科学論とかそんなものを借りていた歴史があります。現代もそうです。神経細胞は信号を流したり変形したりしているだけなのですから、そこから考えないといけないでしょう。しかしそれではとりあえずの論文が書けないし、とりあえずの講演会をしのげない。それで、人々が読みたいと思っているであろうものを書き、人々が聞きたいと思っているであろうものを話す。聞くほうはとにかく、話すほうも、それで知的に満足できるらしい。

話を元に戻して、精神エネルギーの低下で説明できないものとして、制止、死にたい気持ちをあげました。罪責感はどうでしょうか。これも精神エネルギー低下という感じではないですね。
罪責感は、罪責妄想につながるものです。精神病性のうつ病の場合に、罪責妄想、心気妄想、貧困妄想の三大妄想が言われていました。客観的な事実はないのに、「自分は大変な罪を犯してしまった」「自分は大変な病気になってしまった」「自分はとてつもない貧困になってしまった」と思い込み、どのように説得しても訂正されないものを言います。結果として、もう死んでしまうしかない、と思ったりします。この場合には説得ではなく薬物療法が適切だと思います。

3大妄想に関して、「ではそう状態の時には逆の妄想が生じるのか」と言えば、必ずしもそうではありません。誇大妄想が、どのように、この三者と反対なのでしょう。この辺りからも、そうとうつが逆のものか、怪しいところもあるわけです。

ほかには焦燥感があります。落ち着かない、イライラすることです。精神エネルギーが低下すれば「植物がしおれるように元気がなくなって静かになる」方向のはずですが、イライラして怒りっぽくなったりするのです。これは、不安・イライラを抑制する神経のエネルギーがなくなって働かなくなってしまったと考えれば、説明できるのですが、これは陰陽、正負、抑制脱抑制の関係で、言葉としてどのようにも説明ができます。悲しいのは悲しみを抑制する神経細胞がなくなったから、気力減退は気力減退を抑制する神経細胞がなくなったからなどともいえるでしょう。昔のインドの言葉では、気力がなくなったと言わず、無気力が満ちたといったといいますが、神経細胞として何が起こっているかの記述ではなく、言葉の問題の部分かと思います。

最近では、イライラするのは、本来のうつの成分ではなく、躁の成分が混入しているのだと言われます。躁うつ混合状態の一つと解釈するわけです。

こうしててみると、正常と異常の区別も簡単ではありません。なぜ難しいのかと言えば、本質が分かっていないからです。目標としては、原因が発見されて、構造異常が確定され、さらに機能異常の結果生じるマーカーに対しての検査法が開発され、その段階で、正常と異常の区別ができるはずです。
その目標に向かって、観察を積み重ねる必要があります。しかし論文を書いて報告しようと思った時に、それぞれの人が通じない言葉を使っていたのでは進歩がありません。通じる言葉を定義するためには状態の本質が理解されなければなりません。本質を知るために状態の分類を明確にして、情報を集めたいのに、状態の分類のためには本質を知る必要があるという循環論法になってしまっています。
たとえばコロナウィルスの性質について議論したいのに、何がコロナウィルスか確定できないとすれば、なかなか難しい。そこで、「患者さんの粘膜部分から採取した検体をAしてBしてCしたあとでDを測って、それがEよりも大きければとりあえずコロナと呼ぼう」などと、操作手順を決めるわけです。ですから、本質が明らかになるまで、コロナという言葉は使わず、F32.1などと記号で呼んだほうが先入観がなくなっていいですね。このF32.1というのはCDIという診断基準の中等度うつ病のコードです。あまり大きくない国の言語で書かれても分からないので、コードのほうが頼りになります。
というわけで、操作的診断基準DSMがあります。うつ病にZという薬が効きましたという報告では、あなたは何をうつ病と定義しているのですかと問題になります。そのときDSMという共通語を用います。

人間の社会ですから、勢力争いとか、利益の分配が問題になります。そんなこともあって歴史の産物としてDSMがある。とりあえずの共通の言葉を目指したDSM分類ですが、現状では「とりあえずの共通の言葉」にさえなり得ていない。たとえば、原因は分からないからDSMで操作的に決めようと言っているのに、いきなりPTSDなど原因に言及するものがあったりする。それにも理由はあって、仕方がない。
精神状態を言葉で記述するのが大変難しいことは前からわかっていたが、現代でもやはり難問である。(つづく)(まだ原因にも至っていません。下書きです。)
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追加。

病気と正常の線引きについては社会防衛の観点からの意見もある。

しかし細胞構造の観点から言えば、それが社会的にどのような意味を持つのかについては言及しない。その機能が天才的と評価されるかもしれないし、お金持ちになるかもしれないし、それはその機能が社会でどのように評価されるかの問題であるから、細胞構造自体はよいも悪いもないだろう。

進化のメカニズムの中で、有利とか不利とかの判断は出てくるだろうが、それも環境との関係で決まることである。細胞構造に意味が内在するものではない。

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